HSPの僕が強迫性障害を発症したきっかけをお話します。
皆さんこんにちは。
今日はHSPの僕が強迫性障害(きょうはくせいしょうがい)を発症したきっかけについてお話してみたいと思います。
始めにことわっておきますが、かなり重たい内容です。興味のある方だけお進みください。
実は強迫性障害と一言に言っても、実はさまざまなタイプに分ける事が出来ます。
例えば、皆さんに身近な例を挙げるとすると‥
みなさんが家から出かけるとしましょう。
その時に鍵をかけると思うんですね。
普通の人なら鍵をかけたら、一回ガチャンと鍵がかかっているか確認する人もいると思いますし、もしかしたら確認せずにそのまま行ってしまう人もいると思うんですね。
それが普通です。
ただ、ある強迫性障害の人は、鍵がかかっているか何度も何度も確認しなければ気が済まなくて、ひどい人になると確認行為でその場から離れる事が出来なくなってしまう人もいるみたいです。
僕は幸いこのようなタイプの強迫性障害ではありませんが、強迫性障害の中の疾病恐怖(しっぺいきょうふ)という精神病を患っています。
この疾病恐怖。
ある特定の病気に対して必要以上に心配してしまい、自身がその病気にかかっているのではないだろうかと異常なまでに心配し、体の不調をすべて病気に原因があるのではないかと繋げてしまうというもの。
そして僕はHIVと癌。この二つの病気に対して必要以上に心配を繰り返してきました。
実際今も。
しかし、HIVの方は随分と薄れてきました。
ただ、何のきっかけもなく急にこうした病気に対して不安に思い始めた訳ではありません。
話すと長くなりますが‥今日は勇気を出して話してみたいと思います。
僕は大学進学をきっかけに、神奈川のある場所に上京してきました。
2007年の春です。
思い出せば何もかもが新鮮で、やる気に満ち溢れ、初めての都会暮らしに胸が高鳴っていた日の事を今でも懐かしく思い出します。
その当時Mr.ChildrenのHOMEというアルバムがリリースされたばかりで、いまでも曲を聴くと鮮明に当時の初々しい気持ちが溢れてきます。
そうして憧れのキャンパスライフを迎え、バイトも決まり、サークル活動に友達との飲み会と青春を謳歌する日々を送っていた大学1年の終わり頃
僕は生まれて初めて女性と性的な関係を持ちました。
きっと誰しもが通るであろう大人への階段。
ちょうどその頃に携帯で調べものをしている時に、たまたまHIVのページに目がとまりました。
僕は生まれて初めての性交渉とHIV感染をつなげて考えてしまい、自分はもしかするとHIVに感染してしまったのではないかと心配するようになります。
いま思えばそれが苦しみの日々の入口だったと思っています。
無知で未熟だった僕は感染不安に襲われました。
検査せずにはいられませんでした。
検査までの3ヶ月間が地獄のように長かったのを思い出します。
結果は陰性。つまり感染していないという事。結果を聞いた直後、僕は泣き崩れてしまいました。
本当に良かった。もう二度とこんな思いはしたくない。
そう思っていました。
しかし、その後僕は日常生活の中で生きづらさを感じるようになっていきました。
きっかけは、ある日何気なく座ったトイレの便座。
ちょうど座った場所に何かの液体が自身の性器に触れました。
誰かの体液や血液が触れたのかもしれない。
その考えが頭の中をよぎりました。
その液体から、何かの病気に感染したかもしれない
それからその出来事をHIVの感染に繋げて考えてしまうようになりました。
また、こんな考えが頭の中を支配するようにもなっていきました。
「自分が知らない間に傷口などから知らない血や体液に触れてHIVになったかもしれない」
いま考えると、何故そんな考えになったのだろうと思うのですが、当時の僕は大真面目でした。
それからは、誰かのクシャミや友達とのジュースの回し飲み、教室のドアノブ、トイレの便座のおしっこの跳ね、電車のつり革‥そうしたさまざまなものに必要以上に敏感になってしまい、知らない間に自分はHIVに感染してしまったのではないかという不安に駆られ、不安になればHIVの即日検査に行くという地獄のスパイラルにおちいりました。
暗い暗い大学生活の始まりです。
何度検査しても安心できない。
苦しい。
寂しい。
孤独。
その頃からサークルからも足が遠のいていき、大学の講義以外での交友関係も減っていきました。
何度検査を受けても陰性。
当たり前です。
きちんとした知識があり、健康な思考が出来ればそんな心境にはならないでしょう。
ただ、きちんとした情報を何度見ても安心する事が出来ませんでした。
そんな日々を送っていたある日の事。
当時自転車で少し離れた場所にある中華料理屋さんでアルバイトをしており、そのアルバイトの仲間に医療系の専門学校に行っている同年代の男がいました。
何気ない会話の中で、ふいにその男がいった言葉。
「ほくろが動いたら癌の可能性があるって知ってた?」
僕はその言葉をきっかけに新たな病状に襲われる事になります。
それからほどなくして、僕は自分の体にあるほくろ=癌と考えるようになっていきました。
不安が不安を呼び、パニック状態になりました。
そして生まれて初めてうつ病を経験しました。
その時の事は今でも忘れられません。
例えるなら、胸にぽっかりと穴が開いてしまい、高い所から飛び降りて落下し続けているような感覚。
焦燥感。
それから僕は精神科に行き、精神薬を飲み始めます。
背中に小さな頃からあった大きなアザを、医者に見てもらった際、大丈夫だとは思うけど少し気になるとあやふやな言われ方をされた事をきっかけに、パニック状態に陥り癌だと決めつけて病院で切除手術も行いました。
今ではほくろ=癌 だとは思っていません。
ただ、当時の僕はほくろ=メラノーマ(ほくろのように見える悪性腫瘍の事)と知識不足から考えてしまい、パニック状態になってしまっていたのです。
HIVにほくろ、癌。
病気の事を考える毎日。
次第に僕は自分の体の事にしか目を向けられなくなっていきました。
視野がどんどん狭くなっていきました。
その頃にはHIV即日検査に毎週行くのが日課になっていました。
もはや意味はありません。
そうしなければ安心する事が出来なかったのです。
回数は数えていませんが、これまでにした血液検査の回数は数え切れません。
また、神奈川という場所も自身の病状を悪化させるのに最悪の場所でした。
東京や埼玉など電車で簡単に行ける利便性。
HIVの検査が毎週どこかで開催されている充実した環境。
親元から遠く離れ、大学生活を都会の一人暮らしでおくるという孤独な環境。
自分の内側に目を向ける時間はいくらでもありました。
楽しく将来に向かっていくはずの大学生活というかけがえのない時間を、僕はそうした病気というものを心配する時間で埋め尽くされてしまいました。
大学3年になったある暑い夏の日の事
すき家で牛丼を食べた帰り道、自転車で家に向かっている時
急に息苦しくさに見舞われました。
あれ?なんか息が苦しい。
あれ、息ができない。
苦しい。苦しい。
やばい。
僕は自転車から道に転がり落ちました。
やばい、息ができない。
懸命に119番をダイヤルします。
それからしばらくして近くに救急車の音が聞こえてきました。
救急隊の人から電話がかかってくると、近くにいるがあなたを見つけられないとの声が聞こえてきます。
ろれつが回らない。
うまく言葉が話せない。
舌がぴりぴりしびれる。
「息ができない。そちらに向かいます」
それからほどなくして、救急車の中に担ぎ込まれ、指に酸素濃度を測る器具を装着させられました。
「息が苦しくて呼吸が出来ません!」
そう、ろれつが回らないながらも必死に言いました。
救急隊の人からの言葉。
「酸素濃度99%、正常です。救急車はあなたのような健康な人よりも、足や腕が無くなったような緊急度の高い人が必要とするものです。あなたに必要なのは心療内科です。」
その時、舌がべーっと出た状態で、ろれつがうまく回らず、息が苦しい状態でした。
救急隊の人からすれば異常な光景だったに違いありません。
そして救急隊の人の対応は何も間違えてはいません。
今でもそう思います。
その日僕は人生で最悪の恐怖体験をします。
舌がべーっと出たままで、首がぐっと締め付けられる感覚を覚えながら、自宅アパートに転がり込むようにたどり着きました。
部屋に着いた僕は、さきほどまでとは違う感覚に襲われていました。
明らかに息が出来ない。
首がぐっと締まりうまく息を吸うことが出来ません。
ハッ と30秒に1度だけ、なぜか一瞬だけ息を吸い込む事が出来ます。
やばいやばいやばいやばい
息ができない。
息が出来ないので電話で助けを求める事ができません。
なんとか母に「息ができない やばい」とメールを送ったことを覚えています。
30秒に1回の呼吸が、40秒、50秒と長くなる感覚がありました。
死を覚悟しました。
咄嗟に近くにあったカミソリで左手首を切りました。
早く正気に戻らなきゃやばい。
強い痛みがあれば正気に戻れるかもしれないとの思いからの行動でした。
相変わらず息が出来ません。
おれ死ぬ。
そう思いました。
それからどれくらいの時間が経ったのか覚えていません。
相変わらず一瞬の呼吸、例えるならしゃっくりのような一瞬しかできない呼吸の間で、酸素を思い切り吸い込む事だけを考えていました。
本当に怖かった。
そして、本当に死を覚悟していました。
その時、部屋の呼び鈴が鳴ります。
救急隊の人でした。
何度電話しても出られない僕の状態を不安に思った母が電話して、僕のアパートに様子を見に行ってほしいと連絡してくれていたのです。
救急隊の人が、僕が手首を切っていたので警察に引き渡さなきゃいけないと言い、
同時刻ごろ、東京に住んでいた年の離れた従兄弟のお兄ちゃんがやってきました。
警察の人が家に着き、従兄弟のお兄ちゃんが一緒に付き添ってくれました。
その後も一晩中
「大丈夫や、大丈夫」
そう励まし続けてくれました。
息が出来ない状態が少しずつ緩和されていきましたが、今度は新たな症状に見舞われます。
首が左の方向にぐーっと動いたまま正面や右が向けないんです。
また、相変わらず舌がべーっと出た状態になっていました。
後日、従兄弟のお兄ちゃんから、あの日のお前はモンスターだったと言われました。
結局翌日の明け方までそんな状態が続いていました。
ゆっくりと状態が戻っていきました。
あのまま母が連絡してくれてなかったら一体どうなっていたんだろうと考えると怖くなります。
何より身内が来てくれて、付き添ってくれた事が安心出来たんだと思います。
しばらくして、そのときに自分が陥っていた状況が分かりました。
テタニー という状況だったようです。
まれに過呼吸がひどく入りすぎてしまうと、口の周りが麻痺し喉の咽頭筋にも麻痺が及び、窒息してしまう。そして最悪の場合、呼吸困難で死んでしまうこともあるようです。
死ぬかもしれないという感覚は勘違いではなかったんだと知り、死ななくて良かったと本当に思いました。
同時にあの時本当に死んでたかもしれないと思うと、色んな事を考えます。
何よりも過呼吸がそこまで強く入った原因は自分が一番分かっていました。
心が悲鳴をあげていたんでしょう。
人間悩みにさらされ続けてある一定の心理状態を超えてしまうと、ネジが飛んでしまう事を身を持って体験しました。
あの日の出来事は今でも生々しく思い出します。
その時に起きた出来事は夢ではなくて現実なんだという事を、左手首に今も残る傷跡が物語っています。
あの日から10年近く時間が経ち、僕も30歳になりました。
そしてつい最近になり、HSPという僕を悩ませ続けていたそもそもの根本にようやく気付く事が出来ました。
ようやくたどり着いたと思っています。
そしてこれからまた新しい一歩を歩んでいきたいと思っています。
皆さん、いかがでしたでしょうか?
今までこの話をしても、きっと誰にも分かってもらえないと思い誰にも話さずに暮らしてきました。
今日この記事を読んだ方もきっと驚かれた事でしょう。
でも、きっとこれまでに自分が苦しんできた経験も、無駄な事は一つもなかったんだと今では思えます。
そしてこの経験をした事で、人に対して優しくなる事も出来ました。
色んな苦しみを抱えながら生きている人の気持ちを推し量る事も出来るようになりました。
きっと生きていて無駄な経験は一つもないんだと思っています。